浮世絵と錦絵

浮世絵版画のルーツと錦絵の誕生

江戸時代初期において、町人文化を代表するものとして、文芸の世界では浮世草紙、芸能の分野では浄瑠璃・歌舞伎、そして絵画の中では浮世絵を挙げることができる。 浮世絵の源流は、室町時代末期に現れた風俗画であると考えられる。

それ以前においても朝廷や公家、または武家に仕える絵師による日本画は存在していたが、それらの絵は庶民には無縁のものであった。 浮世絵は現世の庶民の生活を描いた絵である。

浮世絵には肉筆画と木版画があるが、岩佐又兵衛の作品は肉筆画のみで、版画の元になる版下絵は制作しなかったようである。 肉筆画・版画の双方を手がけた絵師の最初の人は菱川師宣であろう。

浮世絵版画は、一点ものである肉筆浮世絵を大量生産すべく制作された、というのが通説となっている。 しかし浅井勇助の研究によれば、浮世絵版画はいわゆる「かわら版」をルーツとするものであって、肉筆浮世絵の大量生産化を目的として作られたものではないという。 「かわら版」は1680年代の初めころ、当時あまり身分が高くないとされた庶民により作られたもののようである。

その題材は、火事、心中・刃傷沙汰などの事件、天災などで、ネタのない時は、町娘評判記というものを摺り、売っていた。

なお、「かわら版」という名称は、江戸末期になって現れたもので、それまでは「よみうり」あるいは「辻売り絵草子」と呼ばれていた。 「辻売り絵草子」の名称からわかるとおり、いわゆる「かわら版」には絵が描かれている。当時日本には、寺社の縁起絵巻のように、文字が読めなかった人々にも絵で物事を理解させる伝統があった。したがって「かわら版」の類においても挿画は重要な役割を担っていたのである。

しかし文字や挿画が下手だったら売れない。「かわら版ビジネス」が盛んになると、文字は字の上手な筆耕に、挿画は絵の上手な絵師に依頼するようになったのであろう。このようにして、それまで肉筆画のみを描いていた浮世絵師が、かわら版の版下絵に絵筆をとるようになったと考えられる。

鈴木春信が描いた笠森おせん、清長・歌麿の美人画の多くは、「かわら版」の町娘評判記の延長線上にあるものと言える。 浮世絵版画は「かわら版」同様、当初墨摺りのみであった。 これでは味気ないので、やがて一枚一枚筆で彩色するようになった。 初期の彩色浮世絵版画は丹絵と呼ばれ、四三酸化鉛を使用していたが、やがて薄紅・黄色・草色が用いられるようになった。

その後18世紀の中頃、当時流行していた絵暦の摺りにヒントを得た鈴木春信が多色摺りの木版画を作ったとされている。 この多色摺りの木版画が、「江戸で作られた錦のように美しい絵」という意味で「東(あずま)錦絵」と呼ばれるようになった。そののち「東」が取れて、単に「錦絵」と呼ばれるようになったのである。 したがって浮世絵版画の多くは錦絵である。

錦絵の中には、その内容がいわゆる「かわら版」の状態にあるものが少なからず存在している。

この事実は錦絵が「かわら版」から進化した、との浅井勇助の説を裏付けている。


明治時代の錦絵

明治時代になっても江戸時代と同様、錦絵は歴史絵を装って政治的報道を行い、激動する時代の様相を民衆に伝えていた。戊辰戦争に関する風刺画は極めて多い。

徳川幕府が崩壊し、明治新政府が成立すると、文明開化・殖産興業・富国強兵などの近代化政策の結果として、蒸気機関車、洋風建築、近代化された製糸工場、軍事教練、西南戦争、鹿鳴館風俗などが描かれ、東京土産として全国津々浦々に行き渡った。

歴史絵は江戸時代から多数版行され、歴史教材として重要な役割を果たしていたが、明治政府はその一部を文部省の正式な教材として採用するに至った。

1858年に横浜が開港されると、欧米のさまざまな商品が輸入されるようになったが、錦絵に大きな影響を与えたのはアニリン染料である。

イギリスのウィリアム・パーキンが開発したアニリン染料は、日本にはない鮮やかな色で、しかも安価だったので、1864年頃から錦絵に現れるようになった。 明治初期の錦絵にはこの鮮やかな赤や紫がふんだんに使われていたので、赤絵とも呼ばれていた。当時の民衆は、この赤絵を好んで買い求めていたようである。赤絵からは、新しい時代の清新な息吹を感じ取ることができる。江戸時代後期から民衆の圧倒的支持を得ていた錦絵は、明治時代後半になると石版画や写真の普及により岐路に立たされることとなった。

明治時代には錦絵のピークが二度あった。それは西南戦争と日清戦争の時である。 日露戦争当時は、写真や、活動写真といわれる無声映画が戦争の様子を伝えていたので、錦絵は残照のように最後の輝きを見せたのだった。

明治時代の終わり頃になると、錦絵の絵師は、文芸雑誌の口絵として活路を見出した。これらの口絵は日本では忘れ去られていたが、最近になってアメリカで評価されている。

大正時代以降、錦絵の伝統は吉田博、川瀬巴水などによる新版画として復活した。 この事実は、木版画が肉筆画・写真・石版画・銅版画と比較しても、勝るとも劣らない要素を有していることを示している。