浅井コレクションについて

浅井コレクションの概要

浅井コレクションは、浅井勇助が1915年ごろから蒐集した浮世絵版画(錦絵)から成るもので、100年以上の歴史を有する日本有数のコレクションである。
所蔵点数は約1万点に及び、枚数にして約3万枚を数える。
その膨大な数の浮世絵版画は、日本の歴史全体を網羅しているが、特に、日本が最も活気にあふれ、輝いていた維新・明治期の浮世絵版画の収蔵量は日本の数ある浮世絵コレクションの中でも最大規模である。
浅井勇助は、単に数多くの錦絵を集めただけに止まらず、錦絵を歴史的・文化的面から評価し、その研究成果は「近世錦絵世相史」全8巻(1935年、平凡社)に集成されている。

浅井コレクションは、著名な歴史学者にも高く評価され、小西四郎前東京大学教授の責任編集により刊行された「錦絵 幕末明治の歴史」全12巻(1977年 講談社)に掲載された品目の約70%が浅井コレクション収蔵品である。 さらに、「錦絵 日本の歴史」全4巻(1981年 日本放送出版協会)の掲載品の全てが浅井コレクション収蔵品である。同書において時野谷勝大阪大学名誉教授は、その解説の中で次の通り記している。
「公的機関などには、美術的見地から見ても質量ともに優れたものが多数存在する。しかし時期を幕末から明治に限ってみれば、浅井コレクションほど網羅的に蒐集しているものは、他に例がないと思われる。」
また、浅井コレクション収蔵品による展覧会は、大阪城天守閣をはじめとして全国各地で開催されている。

浅井コレクションの成り立ち

浅井コレクションは、大阪市で古書店を経営していた浅井勇助が1915年ごろから蒐集を始めた浮世絵版画のコレクションである。
浅井勇助は1881年福井県南条郡武生町(現 越前市)に生まれ、のち大阪市北区に古書店「浅井泰山堂」を開いたが、同時に失われゆく錦絵の蒐集、保存とその研究に努めた。
浮世絵といえば、喜多川歌麿・鳥居清長・鈴木春信などの美人画や、東洲斎写楽・初代歌川豊国の役者絵、そして葛飾北斎・初代歌川広重の描いた風景画を思い浮かべるであろう。それらは、過去に欧米人が評価した結果その価値が認められたものである。
江戸後期には歌川広重および、全盛期を迎えた歌川派の、国貞(三代豊国)、国芳などが活躍していた。 浮世絵には上記の作品の他にも歴史絵という分野がある。新聞、雑誌、ラジオ、テレビがなかった江戸時代において、歴史絵は民衆に自国の歴史を教えただけでなく、歴史絵の形をとりながら、徳川幕府が禁じていた政治的報道を行い、さらには幕政を批判的に風刺するという、先進諸国にも例を見ない驚くべき働きをしていたのである。
美人画の大家として著名な喜多川歌麿が晩年に描いた「太閤五妻洛東遊観の図」は歴史絵である。この事実は、この当時歴史絵が大衆に好まれ、美人画のたぐいが売れなくなっていたことを如実に物語っている。
かつて、尾張徳川家の幼君の墓所から浮世絵の武者絵が出てきたことが報じられた。
日本では故人が生前好んだものを棺に入れる習慣がある。
絵本もテレビもなかったこの当時、親は男の子に金太郎や牛若丸などの絵を、女の子には羽根つきや雛祭りなどの絵を買い与え、子供たちはそのような浮世絵を見て夢をふくらませたのだろう。
江戸時代、民衆は浮世絵の歴史絵によって自国の歴史を学び、更に歴史絵を装った風刺画により黒船来航や幕府の政治的動向を知ることができたのである。
幕末期に至り、アメリカをはじめ各国の黒船が来航し、日本は開国したものの、他のアジア諸国同様、列強により植民地化される危機に瀕した。
しかし日本は、この蒙古襲来以来の危機を巧みにかわし、明治維新を経て近代化することに成功した。その要因のひとつとして、歴史絵による教育と情報提供をあげることができる。
維新の志士たちが頼山陽の著書「日本外史」を愛読していた事実はよく知られている。幼時から歴史絵を見て育った若者が、やがて自国の歴史をさらに学ぶべく上記の歴史書を熟読し、国家意識を培うに至ったものと考えられる。
明治時代の日本は、欧米列強に追いつくべく国を挙げて富国強兵、経済振興に努め、他のアジア諸国と異なり、欧米文明を積極的に取り入れ同化した。
この頃の日本は、その歴史上最も活気に溢れ、輝いていたと言えるかもしれない。
明治時代の浮世絵、錦絵は、この様子をビジュアルに伝えている。
浅井勇助は、他のコレクターが蒐集していた美人画や写楽の役者絵、北斎・広重の風景画などではなく、史料として価値がある歴史絵や風刺画、そして当時の様子をありありと伝えた明治絵を、主に集めた。 浅井勇助の著書「近世錦絵世相史」は、戦後になって評価され、その後、歴史錦絵が学校の歴史教科書・教材や歴史書、テレビの歴史番組にも歴史資料として使用されるようになったのである。