昇斎一景

昇斎一景

生没年不詳
初代歌川広重の門人と言われている。一景は、歌川広景の後名で同一人物という説もある。
昇斎一景について、「東京名所四十八景」の目次で、山々亭有人が記した紹介文によると下記の通り。
一時、円山応挙を慕い京都へ遊歴し四条派を学び、後に画業を廃し世を避ける生活をしていたが、明治になって書房からの求めで戯画錦絵を描くようになったという。そのため広景が、幕末に京で学び、明治維新後に東京で画業を再開したとも考えられるが、これを裏付ける資料はない。
作画期は明治3年(1870年)から明治7年(1874年)までと短く、早世したと見られる。一景の作画期は明治初期に限られるため、明治政府主導の文明開化がどの程度民衆に浸透しているかを推し量る貴重な資料でもある。