歌川芳虎(永島孟斎)
没年不詳
歌川国芳の門人。本姓である永島に画号をつけ、永島孟斎とも称した。
国芳と同じく武者絵に秀でていたが、役者絵や美人画、相撲絵、横浜絵なども数多く描いた。
嘉永2年(1849年)閏4月に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」では、家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」を表した絵を描いた。これは、評判となって半日で没収され、芳虎は手鎖50日の処罰を受けた。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであった。
細かい事情は不明だが、後に、芳虎の希望で国芳門下を破門されている。
明治元年(1868年)には錦絵師番付で貞秀に次いで第2位となり、人気絵師のトップクラスに上っている。
歌川国芳の門人。本姓である永島に画号をつけ、永島孟斎とも称した。
国芳と同じく武者絵に秀でていたが、役者絵や美人画、相撲絵、横浜絵なども数多く描いた。
嘉永2年(1849年)閏4月に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」では、家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」を表した絵を描いた。これは、評判となって半日で没収され、芳虎は手鎖50日の処罰を受けた。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであった。
細かい事情は不明だが、後に、芳虎の希望で国芳門下を破門されている。
明治元年(1868年)には錦絵師番付で貞秀に次いで第2位となり、人気絵師のトップクラスに上っている。
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